2024.12.01
お知らせ
2024 年 10 月、『いま知りたい「クルドの若者」の現在地』と題した 4 回連続オンライン講演会を開催 しました。およそ 600 人の方にお申込みいただき、マスメディアにも取り上げられるなど、大きな反響を いただきました。その講演のひとつ、13 年もの間、正規の在留資格がない「仮放免者」として生活してき たクルド人の若者・メルバンさんの体験談を、講演録の形でお届けします。ぜひご一読ください。
私は2011年、母と一緒に来日しました。父は私がまだ1歳半の頃に来日したので、それまで父と会うことはなかったです。来日してお父さんとの生活が始まりました。私は来日して3ヶ月後に小学校に通うようになりました。
当初は日本語能力が0で、学年で1人だけの外国人であったこともあって少し怖がられていました。最初は私も日本語が話せませんでしたし、友達になることができず、時間が過ぎていました。
そんなある日に、友達がお昼休みにサッカーをしているところに1人が手を引っ張ってくれて私をゴールに置いてくれました。その時にサッカーのやり方をジェスチャーで教えてくれて、まずパスやシュートを教えてくれました。
その後に色々日本語を教え始めて、毎回サッカーに誘うようになってくれました。教室の中でも「メルバンに日本語を教える」というのが流行って、みんなが私に日本語を教えてくれました。
私が来日して1年も経過していない頃に、私のお父さんが入管に収容されました。こちらが入管収容所の面会室の写真になるんですけど、何回も面会に行ったので今でも覚えています。
来日1年後というのは、ちょうど私が日本語を覚え始めて友達が増えて、日本の生活に慣れた頃だったのですが、その時にお父さんが収容されて約3か月会えなくなってしまいました。
私と母は経済的な理由により、知人が住んでいる町に転居し、学校も転校になりました。転校先では、私のお父さんが収容されたことを周りに知られて、その時期は特に「外国人が収容される=犯罪者」とか、人を殺したとか、そういう印象が強くて。私自身もお父さんが犯罪者だと思われて仲間はずれにされることが増えました。
例えば話しかけても無視されるとか、プールでバディを組む時もみんな嫌だと言ってきたり。その理由は私ではなく、「犯罪者の息子」ということで断られたことが結構ありました。給食の時にも私が他の子と机を合わせると私の机を押すとか、仲間はずれにされることもありました。学校に行くこと自体が嫌になる経験でした。
授業参観のお昼休み時間に後ろに行こうとしたら、1人の母親が自分の息子に対して「あの子のお父さんは悪い人だから遊ばないで」と言っているのが聞こえました。これは当時すごいショックだったので今でも覚えています。私自身もお父さんが収容されたことを理解できず、悪いことをしたと思ってしまっていたので、精神的にはだいぶ辛い時期を過ごしました。
その後、学校を休みがちになりました。1ヶ月間で学校に5日も行かない状況でした。お母さんも精神的にだいぶ辛い時期で、持病も持っているので、私が学校に行かないとそれもストレスになってしまうと思いました。だから、朝になると登校班から抜けて学校の近くにある公園で下校時間まで一人で遊んで、下校時間になったら家に帰っていました。お母さんはその当時日本語があまりできなかったので、先生から電話があっても私が通訳に入ってお母さんに嘘をついてしまうこともあったんですけど。
勉強自体はすごく好きで、授業が嫌いとかではなく、話しかけても無視されるし、誰も遊んでくれない。それがもうすごい嫌で、学校に行かないようにしていました。お母さんがその様子の私を見て、やっとお父さんが「犯罪者」ではないことと仮放免の話を少ししてくれました。まだ小学生だったので仮放免ということは全ては理解できないんですけど、お父さんが犯罪者ではない事っていうのを知ってすごく嬉しかったというか、私にとっては本当に大きい情報でした。
お父さんは約 3 ヶ月間収容されて、その後私たちのもとに戻りました。私も登校を再開し、お父さんが 犯罪者ではないことをクラスメイトに説明し、理解を得ました。この時はお父さんにも学校に来てもらって、 お父さんもクラスメイトに挨拶をして、そこでやっとクラスメイトも理解してくれました。 それ以降は近づいてくれるクラスメイトも数人いたんですけど、私の気持ち的にはすごいトラウマだった ので、もうその学校には行きたくないってなってしまって、最終的に日本に来て最初に暮らしていた町と小学校に戻ることになりました。
お父さんの入管への出頭日はだいたい朝 5 時半ぐらいに起きて家を出るんですけど、私も起こして鍵を 渡してくれるんですよね。帰りが遅くなるかもしれないから。そういう日は毎回「捕まるのかな」とか、前回家に帰ったら、お母さんが泣いててすごいひどい状態だったので、また家に帰ったらその光景なのかなと 思って、お父さんの出頭日は毎回家に帰るのがすごく不安でした。
16 歳の誕生日以降は仮放免者本人が難民申請の手続きなどを行う必要があります。それまでは代わりに 両親がやってくれていましたが、私も自分で入管に出頭するようになりました。初回は日常生活や、学校生活、健康状態などについて多数の質問をされ、全て答えました。お父さんが過去に収容されたことで恐れて いたので、できるだけ礼儀正しくすることを意識して全ての質問に答えました。
その後、入管職員から「日本で学校に行っても在留資格がないから時間の無駄、お金の無駄だから国に帰りな」と言われました。この時はショックを受けました。16 歳は初めて自分の置かれている状況をちゃんと理解する年齢だったのですが、あまり知らずに入管に出頭したらこのような言葉を言われ、できるだけ失 礼のないように全ての質問に答えていたのに、なんでこんなことを言われるのかと驚きました。
その後、入管職員から就職や他県への移動が禁止されていること、そして私がサッカー選手になりたいと いう夢があったのですが、どんなに努力しても仮放免だからサッカーチームに入ることは就職になるので不可能と言われ、すごく驚きましたし、ショックを受けました。 なぜそのように言われたのかを疑問に思い、怒りを覚えました。
その後に少し考えて、成績を上げて成績を持っていけば認めてくれると思い、良い成績を取るために勉強しました。その時期はサッカーもしていましたし、勉強もしていて、睡眠が4〜5時間の日もありました。結局この時期に2回ほど倒れてしまって病院に行っていろんな検査をして、合計で10万円以上支払い、改めて仮放免者としての自分の置かれている状況を痛感させられました。
高校一年生が終わる出頭日に成績表を持って行きました。本当に自信がすごくあって、8と9と10しかなくて、これでやっと認めてもらえると思って入管に持って行きました。その時にも入管職員に「どんなに頑張っても無駄」と言われました。その後、私自身も「どんなに頑張っても無駄」だと思い込んでしまい、サッカー選手になりたいという夢を諦めて退部しました。
サッカー選手という夢は、自分のクラスメイトに自分の存在を誇りに思ってもらいたいし、家族に裕福な暮らしをさせたいし、本当に私にとって生きる一つの希望になっていました。朝、昼、夜、部活が終わってからもサッカーの練習、テレビも全部サッカー関係で、本当に私にとって生きる希望だったんです。
でも、もし高3でスカウトが来ても、就職が禁止されているのでプロチームに所属できないっていうことを分かっているので、そうしたらもう立ち直れないと思って、高3までの間に違う希望を見つけるために高1でサッカーをやめました。
この年は大きなサッカーの国際大会があって、学校でも皆サッカーの話をしていたので、本当に辛かったです。将来サッカー選手になれないんだって自分で分かった上で、目の前に憧れの選手が試合している様子とかを見るとすごく嫌な気持ちになって、部活も始まる前にすぐに家に帰っていました。結局、友達関係にも影響しました。
サッカー部を辞めたことで、同じチームの人に「なんで部活をやめたんだ」と言われて、私は仮放免者の状況を説明したんですけど、みんな「日本にそんなのいるわけないでしょ」「やる気がないんでしょ」と言われて、友人関係に影響しました。退学も考えたんですけど、退学すればそれまで支えてくれた人々や両親の思いを裏切ることになってしまうから高校に通い続けました。
たくさんの方に支えてもらってやっと入学できた高校ですし、両親は小学校低学年で学校を辞めざるを得なかったんですけど、自分たちの子どもたちには満足するまで教育を受けてほしいという気持ちがすごく強くて。たくさんの借金がある状況の中でもその気持ちを裏切りたくないと思って高校に通い続けました。
大学受験においても、いくつか問題点が生じたので少しお話をしたいと思います。私は高校の時に難民について学びたいと思い、進学を決定しました。その理由は、弟2人もサッカー選手になりたくて子どもの頃からサッカーをしているんですけど、私みたいにならないで欲しいという気持ちが強かったんですよね。私は夢を諦めて、希望を失って何をしても楽しくない。今も例えば大学を経ていい仕事についても成功しても、結局サッカー選手という夢を諦めたっていう後悔が一生残る気がします。その気持ちを兄弟に味わってほしくないと思って、自分が学んで弟達が同じ年になった時には在留資格を持っている状況になってほしいと思い、また難民の様々な映像を見て、難民キャンプなどで役に立ちたいと思って進学を決定しました。
行きたい大学がたくさんあったんですけど、結局、仮放免なので電話しても受験は控えてくださいと言われ、全然受け入れてくれる大学がありませんでした。最終的に、現在通っている大学が受け入れてくれました。
両親は二人とも病気があって手術もして、病院に100万を超える借金があって、その状況で私が大学に通うのはどうかという思いがありました。奨学金も成績とか他の条件は満たしていたんですけど、申し込みの時に住民票が必要で、仮放免者は住民登録できていないことを理由に奨学金を借りることもできず、入学自体を諦めかけたんですが、その時に親戚が大学の授業料を全部支援してくれました。
大学では国際関係や難民などについて学んでいます。仮放免であることは友人関係にも大きな影響を与えていました。大学1年生の時には、みんなで一緒にご飯行くとかどこかに行くことができませんでした。私は埼玉県から東京の大学に通うことになったんですけど、大学に通うまでの道しか行っちゃいけなかったので、友達にどこかで遊ぼうって言われても、できませんでした。友達の中には「大丈夫、バレないでしょ」っていう人もいたんですけど、私は結構職質されたことがあって、そのたび仮放免許可書を見せるんですよね。警察の方はしばらくそれを調べて、30分とかずっと入管に連絡したりして、何とか解放してもらえるんですけど、もし通学路以外で職質があったらダメですし、結局裁判にも影響するので、私はもう学校以外の理由で県外には出ないようにしていました。そのことが友達作りにもかなり影響を与えてしまいました。
保険証がない生活についても少しお話をします。私の両親には持病があって、数年前に母は鼻を、父は片耳を手術しました。保険証がないため全額負担になるんですけど、就労も禁止なので支払いが本当に困難でした。お父さんの病気は元々そんな大きくはなくて、早めに病院に行けば大きな手術をしなくて済んだんですけど、医療費を恐れて病院に行かずに放置して、結局脳に障害が出るまで大きな病気になってしまいました。それで手術することになったんですけど、大学病院でしか手術できないと言われてしまい、片耳だけで116万円もかかりました。私のお父さん以外にも、仮放免のクルド人の多くは多額の医療費を払えないから、それを理由に病気やけがを放置し、悪化させてしまいがちです。
日本にいるクルド人についても話したいと思います。長期にわたって日本に滞在し、日本を第二の母国と思うクルド人もたくさんいます。私もその1人です。その一方で、日本人に対して良くない印象を持っているクルド人もいます。これは入管職員の態度が原因です。叫ばれたり、嫌な言葉を言われることがよくあって、例えば名前が書けない外国人に対して「名前!」って何回も叫ぶんですよね。Google翻訳で「名前」と書けば意思疎通できるはずなのに、何回も「名前!」って叫んで子どもを叱ってるように見えて、その時は同行していた私が翻訳したんですけど、その時に入管職員にも少し睨まれて、その態度にはすごく驚きました。
私は他にもっと素敵な優しい日本人の方がいっぱいいると分かっているので問題ないんですけど、日本に入国して初めて1年も経たずに入管に行くことになった人たちは、入管職員の態度を見て少し日本人全体に良くない印象を持ってしまうことがあります。クルド人の子どもは、学校に行きたいと思っていても行けないクルド人が多いですが、現在は高校とか大学に進むクルド人の数も増えています。その背景には、日本語教室などの活動を実施しているクルド支援団体の皆様の影響があります。
実は在留資格を去年、私も家族と一緒にもらったんですけど、その時から生活が本当に一気に変わったので、少しお話をしたいと思います。去年の6月あたりに、子どもに在留資格を与えるという方針が(法務大臣から)出たときに、最初は日本生まれの子どものみ、その両親も可能性はありという話だったんですけど、私自身は弁護士の方に聞いても対象外だからこの措置で在留資格をもらうことはないんじゃないかなと思っていました。
その時は、私は裁判で留学の在留資格を得られるように争っていたんですけど、両親は裁判でも在留資格をもらえる可能性がかなり低かったです。しかしこの措置により両親も在留資格がもらえる可能性が大幅に高くなったので、すごく嬉しい気持ちになりました。結局は私自身も対象とされていて、入管に呼ばれて出頭しました。在留資格をもらった日は昨年の12月あたりでした。今までは本当に入管からいいことをされたことがなくて、在留資格をもらえるというのは本当に絶対にありえないと思っていました。
一方で在留資格がもらえるならば生活が本当に変わるので、ちょっとだけ希望を持っていたんですよ。家族みんなで一緒に入管に行ったんですけど、お父さんは「期待しないで」って言っていました。期待していてもらえなかったら落ち込んでしまうし、ほとんどの人はもらえないからって言って、入管に朝の7時から向かったんですよね。
本当にすごく緊張していて、まず4階にエレベーターで行ったんですけど、エレベーターの中でもみんな無言で。弟は12歳で、子どもの頃に自分が仮放免って知ったらかなり精神的に辛いことになるので、家族からは話をしないようにしてたんですけど、仮放免のことは少しだけ知ってるらしくて、ビザがもらえるってすごい喜んでいました。でも私と両親は絶対そんなことないって思って、弟たちにもあんまり期待させたくないので、今回は違う件で来たんだって言ったんですよね。
最初は将来の夢についてとかそんな話をしたんですけど、その後に「証明写真撮ってきてください」って言われたんですね。そこでたまたま外にいる弁護士に話を聞いたら「(在留資格)もらえますよ!」と言われて、でも私たちはまだ信じられないんですよ。本当に入管は私たちに今までいいことしたことないじゃんってお父さんも言ってましたし、エレベーターの中でも自分を抑えていて、写真撮ってその後また戻ったんですけど、戻った後本当に両親の心臓の音が聞こえるぐらい強かったです。
お父さんはもう20年もずっと仮放免で日本で生活していて、いろんな権利を制限されてきました。「人間が生まれながら持っているはずの人権を持っていなくて、私は人間として見られてない」っていう言葉を結構お父さんから聞いてきたんですよね。入管職員の方が私たちの目の前に在留カードを5枚持ってきたんですけど、その時本当にすごく信じられなかったんです。私はスマホのライトで在留カードを照らして「これ本物?」みたいな感じで信じられなくて。今までずっと裁判も何年もしてきたし、夢も諦めたから、すごく私にとってはショックで、心臓もどんどん早まって心配になって、しばらく散歩したぐらいでした。両親もすごくショックで、弟たち二人はビザをもらえたってすごい喜んでいたんですけど、両親は無言でずっとみんなを見ていたんですよね。
その後、しばらくの間は在留資格をもらったことは他の方には言わないでくださいというお願いが入管の方からあったんですけど、私たちはエレベーターの中でもみんなずっと笑顔になっちゃうんです。嬉しくて。その他にもクルド人が入管にいて、私たちに「もらえた?」って聞くんですね。ずっと私と両親はニヤニヤしてるんです。気持ちを抑えられなくて。でも言ったらその人を悲しませるから言わないようにしていました。
結局その日は朝ご飯から何も食べていなくて、夜ケバブを食べに行ったんですけど食べられなかったんですよ。お母さんは「お腹がいっぱい」って言って何も食べてなくて、すごく嬉しすぎて食欲もなくなるくらいすごく楽しかったんです。私も何回も在留カードを見て「これは本物か?」とか、その時の気持ちは本当にもう言葉で表せないぐらいすごい気持ちだったんですよね。そのあとも1週間ずっと枕の横に在留カードを置いていたんですよ。
皆さんは「在留カードをもらえるだけじゃん」と思われるかもしれないんですけど、私は今まで夢も諦めたし、埼玉県と大学と(入管のある)品川しか知らなくて。友達も全然できなかったんですよ。大学にも本当に数人しか友人がいなくて、例えばご飯とかに誘って一緒に行こうとなっても結局県外移動が制限されているから行けなくて、それがすごく辛かったんですよね。
県外にも行けるし、あとバイトもできるんですよね。それまでは、洋服も本当に3、4着しかなかったんですよ。大学に行くのも家族に迷惑かけていて、これ以上私がお金使うのは嫌だと思って。ずっと同じ服を着ていて、友達にも「ずっと同じ服じゃん」って言われることがあったんですけど、バイトもできないから買えないんですよ。自分で服を買いたいということも言えないんですよ。大学まで行かせてもらってるから。でも自分の買いたいものもたくさんあったんですよね。サッカーのスパイクとかは1足買ってもずっと使って、結局スパイクがなくなって、ランニングシューズとかでやってたんですけど、やりたいことがいっぱいあって、でも1つもできないんですよ。
病院にも行けるんですよね。22年にコロナに感染したんですけど、その時病院に行ったら結局薬代とかで1万円以上かかってしまったんですよね。その後またコロナに感染したんですけど、その医療費も例えば自分たちの家族の食費に使えるお金なので、自分で治そうと思って病院に行ってないんですよ。検査自体も行ってませんし、部屋に閉じこもって1週間ずっと部屋にいて。それ以外にも怪我しても病院で多額のお金がかかってしまうので行かないようにしていたんですよ。でもやっと病院に行けるようになったんですよ。これって本当にすごい幸せなことで、それまでは全然何があっても重症じゃない限り倒れたりしない限り病院はダメだったんですよ。例えば手が痛いとか腰が痛いとかそういうことがあっても病院には絶対行かないって決めていて、でも今は本当に頭が痛いとなったら病院に行けるんですよ。これは本当に私にとって嬉しいことです。
あとそれに加えて、弟たちが私のように夢を諦めなくても良くなったんですよね。二人とも今もサッカーやっています。ちゃんとサッカー選手になりたいという夢を目指していて、真ん中の弟はすごい頑張ってクラブチームに入ったんですけど、私は結局仮放免でサッカー選手の夢を諦めてしまって、すごく辛かったんですよ。本当に生きる希望はもちろん家族が私にとって一番大きな希望なんですけど。でも自分が子どもの頃、将来18歳になったらクラブチームに入ってサッカー選手になるとか想像するじゃないですか。今の自分を鏡で見るとすごい嫌な気持ちになるんですよ。今はまあまあ回復してるんですけど、以前はすごい嫌な気持ちになったんです。ずっとサッカー頑張ってずっと夢を追いかけたのに、結局これかってすごい嫌な気持ちになって。すごく辛かったので、この気持ちを二人は絶対味わわないでほしいと思っていて、私にとってこの在留資格をもらって一番嬉しかったことが、弟たちが私のようにならなくて良かったっていうことです。
あとはもう1つが、将来的な目標を立てられるようになったんですよね。もともとサッカー選手になるという夢を立てて、先ほど言ったようにすごく嫌な経験をして、本当に生きる希望を失って生きることが楽しくないと思っている時期が結構続いて、そうなると仮放免者だからいつ強制送還されるかわからないしいつ収容されるかわからない状態なんですよね。結局将来的な目標を立てても、どんなに頑張っても入管職員が言ったようにお金と時間の無駄っていう気持ちを持っていたので、例えば大学でも将来どういう仕事に就くのかとか話すんですよね。でも私はあんまり考えたくないんですよ。結局その時は将来を想像できなかったので、短期的な夢を立てていて、例えば1週間後はこれやる、例えば2日後はこれやるってずっと短い夢で、それもすごく辛いんですよ。
周りの人はみんな何歳で結婚してとか、何歳でこの仕事をするとか、サッカーの社会人チームに入るとかそういう計画をして話しているのに、私は1週間とか2週間とかその程度の話しかできなくて、結局これも本当に私にとって辛くて、ずっと目指すものがないとやる気も出ないんですよね。自分は何で生きてるんだって思うこともあって、私は家族がいたから家族が生きがいにはなったんですけど、家族がいなかったらどうなってたかわからないし、サッカーも夢を諦めて、将来の目標も立てられない状況になってしまって、本当にすごくつらかったんですよ。
だけど今は将来的な夢を立てることができるんですよ。在留資格があって、ちゃんと夢を持てるようになったんですよ。計画を立てて、その仕事につけるように頑張れるようになりました。これは本当にもんのすごく嬉しいことで、人生が楽しくなるんですよ。追いかけてるものがあるから、何もかも楽しくなるからやる気も出ますし、成績も大学1・2年生とかに比べてすごく上がっていて、よくなったんですよ。本当に最近はずっと幸せで、在留資格を持ってることが嬉しくて、過去に仮放免者だったときのことを思い出すとちょっと嫌な気持ちになるんですけど、頑張って大学に通い続けて良かったって思うことがあります。
最後に現在私が何をしてるかについてお話をしたいと思います。私は現在、大学に通いながらNPOメタノイアの日本語教室「Mutluわらび」でクルド人の日本語学習や学校の宿題、テスト勉強、受験勉強を手伝う仕事をしています。この仕事を始めた理由は、子ども達が家では親と(母語で)話すため、日本語を習得する時期が遅くなってしまうことが多いことが問題だと考えていたからです。
そうなると友達を作る機会も逃してしまい、勉強にも追いつけなくなってしまって、結局学校をやめる人がいます。私自身は小学校の時にサッカーのおかげもあって友人に恵まれ、日本語を友人に教えてもらいました。例えば、クラスの女子がドアを閉めて「今ドア閉めた」と言って私に「じゃああなたも言ってみて」とジェスチャーで教えてくれることがありました。それを続けた結果、私自身も勉強する意欲がどんどん増してきて、話したい、理解し合いたいという気持ちが強くなり、勉強するようになりました。
でも、その機会や経験が全員にあるわけではないので、この教室では来てくれた子どもたちにまず日本語を教えて、その上で学校の宿題を手伝ったり、例えば一緒に日本語で会話して、日本人のスタッフとも話してもらっています。学校に行っても日本人の友達にも気軽に話しかけられるようになってくれたらすごく嬉しいなと思います。
それ以外にも子どもたちだけでなく、母親たちにも日本語を教えています。今20人以上が来ていて、その人たちは全員日本語を学びたいけど、学ぶ場所をずっと探している人たちです。短期的な教室に通った人もいるんですけど、最終的に私たちのところに来てくれて、今すごく一生懸命日本語を学ぼうとしています。その理由というのも、日本社会でこれから生活していきたいということもありますし、自分の子どもの成長過程で自分もできることをしたいという人が多いからです。日本語ができないと、授業参観でも子どもが何をしているか分かりませんし、保護者会などがあってもわからないので、大きな言語の壁があります。その壁を一緒に日本語を勉強することで超えられると信じています。
女性だけでなく、もちろん男性にもたくさん教えています。先ほども2人組の中学生のクルド人がいたんですけど、最初1、2回来てその後は来ないかなと思っていたんですけど、毎日必ず来てくれて、一緒に勉強して日本語で話して、その後家に帰るというのをやっています。
私が小学生の時にこの機会があったらすごく嬉しかったなと思いながら、今の子どもたちに私ができることをやりたいと思っていて、そのためにこの活動も今後続けていきたいと思います。
(完)